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To be on earth ( ˙ω˙ ) ちきゅに生まれた宇宙

生物史的に戦争を考える




日本の歴史認識問題は深刻だと思う。


このまま植民地主義を忘却した世界史を学び続けたらいずれ私たちは本当に忘れてしまう。


ドイツや日本は敗戦国とはいえ、もとはといえば英仏らとともに植民地争奪戦を繰り広げた列強の仲間。


先住民虐殺、慰安婦、奴隷問題、アフリカ系市民やその他あらゆる理由でうまれる差別。当事者はもちろん、彼らの子孫に苦しみや悲しみは受け継がれている。私たちはどうしたらいいのか。


慰安婦問題でも「どっちもどっち」論を繰り広げる人がたくさんいるが、加害責任を否認しはじめたら終着点などどこにあるというのだろう?


戦争や植民地支配の責任問題は、国家間の事情や過去で解決済みと処理したところで被害を受けた人びとや彼らの家族の記憶やそれ自体が消え失せることはない。


単なる条約で済ませようとしているならそれはバカみたいなファンタジー
ましてやそれを教科書に載せてあたかも「解決済み」と説明するのは正直最低だと思う。


大事なのは権力を持つ国のリーダーたちが上辺で解決することじゃない。
苦しみから逃れられない人びとに目を向ける体制をとること。
自分が安全な暮らしをしていても、その犠牲となっている人びとが本当にいないか、世界を見ること。まずは知ることから。
それがどれだけ気の遠い、先の見えない行いだとしても。


今の人類の進歩で簡単に片付けられる術はない。なら、途方もない方法でもやらないよりはマシだろうと。今できることを着々とやる。


1人でも多くの人が胸を張って生きれる世界を見たい。





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Sudan Nuba peoples/ヌバ民族


ここから先は教えてもらった話。すごく面白かったからシェアしようと思って。



5月にスーダンで大きな武力衝突があったけど、つい最近また起きた。発端はアラブ系牧畜民が殺されたこと。


その報復で全く関係のないヌバの人が殺された。両者の衝突で20名の方が亡くなり、約1000人が再び避難することになった。


なぜこういったことが、あらゆる場所で繰り返されるのだろう?


全く文化や価値観の違う人びとに、平和構築系のワークショップをやったところで慣習法に勝る力はないのかもしれない。彼らの中でそれはあまりに普通だから。


例えばアフガンでは憲法イスラム法の上にはありえない。民主主義国家と言いながら、憲法最高法規だけどイスラム法を超えるものがない。


名誉殺人や部族法も、すべてを受け入れるにはなにか人として根本のところで私たちは違うことを実感させられる。


私たちはたまたま日本に住んでいて、殺し合わないことが当たり前のようだけどこうやって他の社会で殺し合っている現実がある。


ただ、見方を変えてみれば、生物界でも資源をより獲得するための環境適応の一つの戦略として同種で殺し合うことがある。


猿が猿を殺し、魚と魚、カマキリとカマキリ。
種別関係なく同種の殺し合いがあるけど、ことさらそれが人間社会に起きると生物界で起きていることと同列に見られず、違う部分があるとされる。


殺し合うことは当事者の悲しみもあるだろうし、よくないなとは思うし、止めなくていいとは思わない。
でも生物的にはどうなんだと思うと人が人を殺すことについて、これが人間に特異なことではないとも思う。


法や制度という人工的なもので抑制しようと思うと、自然の営みとしての殺し合いがどこかで起きるのではないかと思う。


人が人を殺めることはなくしたほうがいいが、 一方で代々埋め込まれている生物的プログラムとして"ある"ということを考えた方がいいとも思う。


強いものが生き残るのではなくて、環境に最適化されたものが生き残る。
法律や制度、都市化といった文明、どれも人工的なもので環境最適を手に入れているように見えるが、人間ほど弱い生物はいないのかもしれない。


人口は増え続けているから、生存以上の暮らしを求めれば資源も足りない。法や制度で殺さないようにしているから、ひずみが最終的に殺し合いとして出てくるのか。





なるほど、生物的プログラムとしてだれしもがおそらく持つ潜在意識のようなもの。"生きるために殺す" 環境に適応しないものは生きていけない。それらを人類史の中ではかなり後から出てきた法や制度で縛ろうとしても縛りきれない。ひずみが出てくる。


かなり興味深い二つの事象と着目点だった。






この後もう一つブログを更新しましょう(๑╹ω╹๑ )